■合気道はどんな武道か
■創始者・植芝盛平翁が語る合気道

たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気が吹き上がり、私の身体を包むと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味も分かり、この宇宙を創造された神の心がはっきりと理解できるようになった。その瞬間、私は「武道の根元は、神の愛−万有愛護の精神−である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。その時以来私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我が物と感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切無くなった。「合気」という名は昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」と呼ぶことにした。

合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。いかなる早技で敵が襲いかかってきても私は敗れない。それは私の技が敵の技より早いからではない。はじめから勝負がついているのだ。敵が「宇宙そのものである私」と争おうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち私と争おうという気持ちを起こした瞬間に、敵はすでに破れているのだ。そこには早いとか遅いという時の長さが全然存在しないのだ。合気道は無抵抗主義である。無抵抗なるが故にはじめから勝っているのだ。目をつむれば何もなくなる。自我と私欲の念を去ったら、天地はすべて自分のものになるのである。

合気道は相手の力を全面的に利用してしまうんです。だから相手に力があればあるほどこっちは楽なんですよ。合気道 では絶対に攻めない。攻めるということは、その精神がすでに負けることを意味するんです。徹底した無抵抗主義 で相手に逆らわない。だから合気道には相手がない。相手があっても、それは自分と一体となっていて自在に動かせる相手なのです。合気は絶対に相手に逆らわない。突いてきても、切ってきても要するに一本の線であり、点であるからそれをよければいい。

(ある武道家の、極意技とは如何なるものか見せてほしい、という要望に対して)君は何を言っているのか。日々極意の技をやっているではないか。今日教えた入身の投げ技などは、極意中の極意だ。 奇想天外な極意などというものは、武道においてはあり得ないよ。
〇合気道練習上の心得(抄) ― 旧・本部道場
・ 練習は常に愉快に実施するを要す
・ 指導者の教導は僅かに其の一端を教ふるに過ぎず 之が活用の妙は自己の不断の練習に依り初めて体得し得るものとす
・ 日々の練習に際しては先づ体の変化より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故  障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし
〇道歌
太刀ふるひ前にあるかと襲ひ来る敵の後に吾は立ちけり
己が身にひそめる敵をエイと切りヤアと物皆イエイと導け
常々の技の稽古にこころせよ一を以て万に当るぞ修行者の道
白蘆林のこと
少年や若者が合気道を通じて強く逞しく、優しい思いやりのある人間になれるように。また、大人もそうあり続けられる、
そんな青少年健全育成の場でありたい。そういう思いから、下村湖人の「次郎物語」を基に「白蘆林」と名付けました。