夢のまた夢
和田正志/四段/火曜日夜担当
今年で28年目になる。合気道をどうしてこんなに長く続けてこられたのだろうか。やはり自分にとって忘れられない出来事は、本部道場で山口清吾先生の技と出会ったことだろう。正面打ちにいったとき、ほんの少しの力も感じずに畳の上に転がっていた自分。先生はどう投げて、自分はどう動いていたのだろうか。多分他人の目からは、先生がごく普通に一教か入身投げの技をかけていたように見えていただろう。
触れずに倒す技も体験したけれど、やはり皮膚の薄皮1枚の当たりで導く技、投げられて気持ちのよい技こそ、本当の合気道の技ではないかと思う。生前の開祖の技を受ける機会はなかったけれど、この技の体験を通じて想像ができた。何事かをなすには3年かけて師匠を探せという。確かにその通りだけど、15年近くたってから求めていたものに出会うということもあるのだ。
自分が体験したあの技の再現。そして、好きなように持たせ、好きなように攻撃させても技がかけられるようになることを夢見ている。今まで教えられてきたこと、何かで読んだことなどが稽古の道連れになってくれる。
『合気道は徹底した無抵抗主義で相手に逆らわない。だから合気道には相手がない』
これが体と心で実現できたら、その人は本当に無敵になれるだろう。実現の道のりは遥かに遠い。しかしながら、そのために合気道の技と稽古のシステムがあり、見習うべき古今の名人、達人、先輩、稽古仲間たちがいるのではないだろうか。利用できるものを利用しない手はない。『前進し相手に当たる』。
『丹田に気力を集中し、どこにも固まらない体の柔軟さと、足が居付かないこと』
ある時、偶然に腕の力がすっと抜け、うまく技がかけられた時があった。このとき、折れない手の本当の意味が分かった。合気道では常に折れない手の状態、つまり腕には力が入っていないけれど折れない状態でなければいけないのだった。折れない腕は気のテストをするためにあるのではない、という当たり前のことがその時わかった。しかし何時もできてるわけではない。『技は盗むもの、自得するもの』。
『切られる所に切られない所がある』
若者がそれなりに稽古すればうまくなり、強くなるのは当然だろう。しかし子供でも、年配の方、女性でも熱心に稽古すれば必ず上達する方法はないのか。その鍵のひとつは体捌きにあるような気がする。攻撃に対して、まず入身で自分の体を安全な位置におくこと。このとき自分の中心と相手の中心はできるだけ近いほうがいい。正面打ちなら道衣すれすれを打たせること。この位置なら相手のどこかに触れることにより、体捌きだけで導くこともできる。心意気は『気で体当たり』。
『形から入り、形を離れる』
精武館で稽古を始めた時、髪をお下げにした先輩の女の子から「表と裏をはっきり区別しなさい」と教えられた。人に見てもらってはじめて分かることがある。初心者はまず基本技を十分稽古することが大切だろう。基本技は合気道のエッセンス、極意に至る王道なのだ。まず表技を十分稽古すること。表技ができると裏技が生きるようになる。そして、入身、転換を意識して稽古すること。形をおぼえ身につけるには、1人での十分な反復稽古と気の合う相手との組稽古が大切。数が多ければ多ほどいいと思う。アマチュアならひとつの技を一生かかって追求してもいいんだから、その点は気楽だ。数を目安にした稽古も意義がある。『千回の稽古を鍛とし、万回の稽古を練とする』。
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